O2観察記

何でも略せばいいってもんじゃねーぞ

コテ概メモ(編集中)

はじめに

一般にコテとは自己顕示と自己承認の欲にまみれた存在であるとされる。

匿名の利用者が大多数を占める掲示板においてかかる認識が生じるのは当然であるし、したがって少数の例外を除けばほとんどすべてのコテがいわゆる名無しさんから白眼視される現状にあるのも、俺はもっともなことだと考える。

いくら管理者からその権利を付与されているとはいえ、天賦人権が公共の福祉の前に時として膝を折らねばならない現状があること、すなわち、名前欄にハンドル名とトリップとを表示させることができるという一方の利用者の権利が、スレにおける円滑なコミュニケーションを享受したいという他方の利用者の願望と衝突し、最終的に、スレ立て時の機能としてのコテ禁止の是認に結実したことは、メイドインヘブンたる「コテ権」が場合において束縛されることを示す好例であろう。

 

ここで俺が「かかる権利の制限は、おんj民のコテに対する視野の偏狭さから成立した、極めて差別的かつ不当なものであって云々」と言うのは簡単である。

事実、おんj民のコテ嫌いが、各自の経験に基づかないものであること、いわば住民間でおのずと形成されたコテのステレオタイプ、想像上の産物に対する嫌悪である、といった感じは否めないでもない。

それはあたかも見えない異性を相手取って舌鋒鋭く攻撃するどこぞの掲示板の住民のようなものであるから、まあ確かに、先の主張までは俺が成しうるものであるとしてみて、しかしここから先が問題である。俺は続いて「……木を見て森を見ず、すなわち一部のコテの行いを見て、その先入観のもとにコテ全体の性質を断じることはあってはならない、一部が悪行を犯したからといって、それが属するカテゴリーにある大多数もまた悪を成すとは限らない云々」と言うことになるだろう。けれども俺は、口が裂けても「まとも」なコテがコテの多数を占めているなどとは言えないのである。

おんj民を納得さすにはまず客観的なデータが必要だろうし、そのデータを収集するにあたって必要となる熱意は「コテは『まとも』である」という信念に基礎をおくものであろうが、しかしまことに残念なことに、俺はコテが「まとも」であるとは思わないので、その信念も熱意もへったくれもあったものではないのである。
誓って言うが、かかる俺の認識は、先述した白眼視は当然である旨の主張のみに基づくものではなくて、もっと別の、コテの本質に関わる個人的な意見に立脚した見方によるものなのである。そしてその見方とは、誤解を恐れず簡潔に言えば、コテが「まとも」ではないことを称揚するもの、である。

つまりコテが「まとも」ではないことを追求する過程において、おんj民をしてコテ嫌いに至らしめる何かがあるようであれば、もはやそこに和解や交渉の余地はない。俺は決して荒らし行為を是認しているわけではない。むしろ、何の理知的な目的意識もなく、ただ自己承認の欲求というものに負けて行われるそのような行為に対しては、これを俗悪かつコテとしてもっとも程度の低い行為であると断言することに俺は何の躊躇もない。
だが、コテが或る一つの明確な目的意識をもって、しかもそれを表には示さず、悟らせないままに、「まとも」でない行為をきっちりやり遂げるようであれば、俺はかかるコテに対してこれでもかと言うほどの拍手を送るであろう。
ではこの目的意識とは何か。俺をしてこれほど両手を疲弊させるものとは何なのか――それはずばり、「キャラクター性の希求、ならびにその保持増進への意識」である。

閑話

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。」
兼好法師は、賢人となることを目指す者をあれこれと貶す人間に対して、
真似事であっても学を志す者こそが賢人である、僻んでばかりのお前は一生愚物のままである云々と言ったのだが、彼はこの結論を引き出すための喩えとして先の文句を用いた。大路を走ったら即狂人認定とはなかなか手厳しいが、しかしこれはその対象が貴族であると考えれば納得がいく。
衣冠束帯に身を包んで厳かな身振りを示す必要のあった当時の貴族が、それらをすべてかなぐり捨てて京都の大通りを全力で駆けたなら、そりゃもちろん狂人であろう。たとえその行為の前に、今から狂人の物真似しますだの何だの宣言していたとしても、これはすなわち社会的身分を一挙に失いかねない、いや確実にすべて失うに違いない、貴族生命を賭した悪ふざけなのである。

おそらく道端には往時の葵祭に勝るとも劣らぬ数の見物人が集まってくるであろうし、何の騒ぎかと驚いた検非違使庁の役人も大勢押し寄せてくるであろうし、ああ、平民ならぬ貴人が大路を走るとはそれほどの行為なのである。彼は一昼夜の内に奇人となるわけである。親は怒り、妻は泣き、子は惑う。もうすべて取り返しがつかない。いや、あれはキチゲ発散のためでして……とか何とか言っても後の祭りなわけである。全力疾走とはそれほどの行為なのである。

したがって、兼好法師の「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なる名文句を、そのまま掲示板上のコテのキャラクターに対して適用するのは間違っている。
コテがどれほど狂人を真似してみたところで、その行為それ自体に社会的身分や地位を失う可能性が潜んでいない以上、これは兼好法師の喩えにはそぐわない行為なのである。

これはわざわざ言うまでもないことには違いないが、しかし時としてかかる文言に代表されるような名フレーズに付随する権威ばかり振りかざして無謀な論破を試みる輩も出没するようなので、念のためひとつ長々と付言しておいた。
……まあしかし、考えてみれば、兼好法師の権威の人を魅了するところは、後世の誰それがやらかしたとされる家系図偽造の件からして十分理解できるものではないか?
なるほど、それもそうである。では今ここに、人の子よ――すべてを赦そう。*1

……こういう狂言回しもコテハンのキャラクター性の保持のための一つの手段となりうる。
端から見れば単に大仰な言葉遣いをするアホ、あまり強い言葉を使うなよ弱く見えるぞ定期であろうが、コテ当人はこれでいわば生計を立てているのであるから至って必死である。
あるいはむしろそう思われることを意図して演っているのであるから、かかる蔑視も当人にとっちゃ本望であると言えようか。

 

(引用)

 

以上を一言で言うならば、『書き手』は読み手に信頼されなければならないということである。
そして俺はこの両者の関係性をそのまま『コテ』と当該コテ以外のコテ・名無しさんサイドのそれに早速当てはめようとしているわけだが、しかしなにぶん唐突なものだから諸賢が困惑しているであろうことは容易に察しがつく。


そこで誤解のないよう付言しておくと、二重カギ括弧で括られた『コテ』とは、掲示板上ではなく実世界上に存在する一個人を意味している。
すなわちこいつは、掲示板においてコテという一つの人格を創作しかつ操作する、リアルワールド上の何者か、なのである。

先ほど俺はこいつを小説の『書き手』に擬えたが、もうお分かりのように、それは実世界上の『コテ』が掲示板の「コテ」に対して持つ責任と、同じく実世界上の『書き手』が「小説の内容」に対して持つそれとが一致していることからくる比定だった。
つまり『コテ』と『書き手』にとっては、他者からの信頼こそが自身の生命線であって、彼らはかかる信頼をそれぞれ「コテ」と「小説の内容」を通して得ることになるわけだが、それらはあくまで信頼を媒介するモノにすぎない。

したがって、たとえば「コテ」がとんでもないキチガイであったとしても、他者がその「コテ」の先に『コテ』の力量を垣間見るように、『コテ』当人が仕向けることができれば、それで何の問題もないわけである。
具体的に言えば、流浪騒動時の拓也による法律持ち出しの類やらが挙げられるだろうか? あれは間違いなくもっとも印象深い事例のうちの一つである。
なにせ普段はダンゴムシ清水宗治にしてキャッキャしていたような彼が、仲間の特定危機に際しては即座に火消しと弁護に走ったのだから、驚天動地もむべなるかな、その後俺は彼がどれだけキチガイ行為をやらかしていても、しかしこの「コテ」の裏には信頼に値する『コテ』があるのだから、と、安心やら諦めやらが奇妙に入り混じった感情のもとに彼の行動を認識するようになった。

補足すれば、この感情はすなわち、ある程度静かな店内で、モグモグ食事を取ってる自分の席の背後に明らかに独りでぶつぶつ言ってる奴がいて、うわこいつはやべーやつか…?という戦々恐々とした疑いのもと意を決してちらっと後ろを振り返ったら、じつはハンズフリーの通話やってました、みたいな時に感じるやつである。
なんだゲエジじゃなかったのか、やれやれ、という安心感、じゃあいきなり襲ってくるようなこともないわけだ、という信頼感、しかしこの静かな店内で臆面もなくハンズフリるってなかなかだろ、というほんのわずかな消化不良感、……でもまあ人それぞれだしな、俺が過敏なだけだろ、という自分を納得させようとする意識、大体これら四つからなる感情を、当時俺は拓也に対して抱いていた、というわけである。

 

*1:さらに付け加えれば、「では例のコテハンはどうなるのだ、彼は特定されたぞ」という意見もあるかもしれないけれども、それは彼が先述したような理知的な目的意識を欠いた行為を繰り返したがために起こったのである。少なくとも俺は、彼が自身のキャラクターを自覚し、それを保持しようとしていた形跡を、彼の書き込みの中に見出すことができなかった。したがって彼は、俺の認識としては、単なる総領の甚六であった。