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ラノベの感想とコテ界隈を紐付ける作業の過程

感想早く書けよ

ある作家は、書き手は読み手に信用されねばならないと説いた。そしてその信用とは、作者が視野を広く持つことによって獲得されるものだとも。

話の展開やキャラクターの造形などに目を配ること、すなわち、それらに矛盾がないか、作品を貫く論理がブレていないか、ということに神経を尖らせつつ筆を運んでいかないことには、信用は得られないようなのだ。得られなければ放り投げられるだけ、あるいは、わざわざ金を出したのだからと惰性でページを繰られるのがやっと。

それに対して、むせ返るようなフィクション臭を嫌ったり、どうも主人公の単純な性格が気に入らなかったり、ヒロインのあざとさに辟易したりといった理由による「放り投げ」には、まだ希望がある。なぜかと言うと、それは作者自身への不信感に起因するものではないからだ。敬遠の動機はあくまで作品内部に留まっている。これが作品を飛び出して、本来は作品世界と関わりのないメタ的な存在であるはずの作者に及んだときが厄介なのだ。

だから、ユーモアセンスの欠如も、しみったれた筆致も、散りばめられた虚飾も大いにけっこう。書き手への不信の念を抱かせるもの、すなわち視野の矮小さという大悪党の前にあっては、そいつら小悪党が犯した罪なんて微々たるものなのだし、むしろこれを殊更に罰するような奴こそ、断罪されて然るべきだ。

ちなみに言うが、もちろんわたしは、これが危険な開き直りと捉えられかねないことは認識しているし、その上で書くのである。あるいは、以降わたしが以上記の小悪党三人衆のいずれかの轍を踏んでしまうような場合に備えて、事前に言い訳の文言を弄しているとお思いだろうか。……なるほど、そういう考えもあるのだなあ、非常に参考になりました。

そうなんだ

さて、ここまで長々と前置きをしたのには訳がある。わたしはこれから『キミ黒』なるライトノベルの感想をべらべら述べていくのだが、その前提として上記の色々を踏まえておいてほしかったのだ。結論から言えばわたしはこのラノベを存分には楽しめなかった。けれどもそれは断じて作者に対する不信ゆえではなく、小説内のキャラクターや話の運び方に起因するものである――そうであったに違いない。

となれば、わたしはこれから、先述したような、小悪党をいちいち断罪する裁判官になってしまわないとも言えないわけで、なるほど、そうなればこれほど見事なブーメランはあるまい、ほとほと自嘲するほかない事態に陥ってしまうわけだが、しかし、すこし自己弁護しておくとするならば、わたしがあえて非難したのは、作品の不出来を作者の人となりの不出来とみなすもの、すなわち小悪党を大悪党に仕立て上げてしまう審判者の卑劣さであり、小悪党を小悪党のまま批評する、小憎らしいがある種賢明な法官のその態度を云々したつもりはない。今後わたしは必要に応じて後者となるかもしれないが、前者と化さないように重々注意していく気でいるので、まあ、とりあえずはその拳を下ろしていただきたい。

脱線ばっかじゃん

またまた長くなった。さて、ここからは肩の力を抜いていただいてけっこうでございます。見知らぬ抽象論で満載の重荷は一旦下ろして、傍らに咲く草花でも見ながらティーパーティーと洒落込みましょう。おや、この花の名前は何でしょうね……なるほど、『キミのこと黒歴史もまとめて……ぜーんぶ大好きだよ』。

わたしはまずこの小説の新奇な題材に興味を持った。試しにamazonの内容紹介を抜粋すると、

 「確か『リファレンス』って名前を使って、ネット上で論争を繰り広げてたよね! 
あの頃はわたしも掲示板で暴れていたから……いっしょだね」

血湧き肉躍る一文である。知っての通りわたしは掲示板でコテを六年半以上やっているので、コテを題材にした小説には目がない。といってもそういう小説にお目にかかったのは今回が初めてだが。不勉強を恥じつつ思うに、出版社はもっとこの手のニッチな需要に敏感であるべきだ。ラノベは初版で3000部も売れれば上々だとさっきネットで知ったが、わたしは鑑賞用、保存用、予備、予備、予備で5冊ほど買うことにやぶさかでないし、なんなら他のコテに薦めもする。コテの間で連鎖が続いていくとすれば、なに、3000冊ぐらい余裕だろう。

ところで、わたしはラノベなるものに縁がない。読んだものとしてはキミ黒で通算二作目である。一作目はゼロ年代に刊行されていたもので、名作の誉れ高い「イリヤの空、UFOの夏」だが、これは2巻か3巻の途中で読みさしてしまった。――と書いてから、じつは、昨日一つ前の句点を打ち終えたあと、もう夜も遅かったからいそいそと床に就き、明くる日、つまり今日、なんとなく思い出しついでに2巻を開いてみたら存外面白くて、ものの見事にあとがきまで読み尽くしてしまったのです、と言おうものなら呆れられるかもしれない。二つ前の句点のときには『わたしの精神性はラノベ全体の雰囲気にそぐわないのかもしれない』と威儀たっぷりに論を起こして、それから色々やったあと、さらに威風堂々『かかる雰囲気を楽しめるものこそがコテ文化を最も楽しめるものであるのであるのである』云々と結ぼうと思っていたのだが、どれもこれも後の祭り、水の泡と消えたわけだ。とはいえ、ラノベのrの字も知らないような人間が無遠慮にも『雰囲気が無理』などと戯言をのたまっていたなら、これもまた呆れられていたに違いないわけで、ややもすればこの方がわたしに向けられていたであろう辟易の程度は深かったかもしれない。なるほどそう考えれば――いや、ちなみに言うが、以上の一連の文章が、得てしてラノベというものをどこか軽薄なものとして侮っていたことに対する申し開き、もっと言えば反省文となることをわたしは認める。「キミ黒」の感想の本筋に入る前に、かかる先入観を曲がりなりにも吐き出しておくことが必要だと思ったわけである。

ティーパーティーとは何だったのか 

さて、ようやく感想の段に行き着きました。

 

 

 

 

 

 

 

コテ概メモ(編集中)

はじめに

一般にコテとは自己顕示と自己承認の欲にまみれた存在であるとされる。

匿名の利用者が大多数を占める掲示板においてかかる認識が生じるのは当然であるし、したがって少数の例外を除けばほとんどすべてのコテがいわゆる名無しさんから白眼視される現状にあるのも、俺はもっともなことだと考える。

いくら管理者からその権利を付与されているとはいえ、天賦人権が公共の福祉の前に時として膝を折らねばならない現状があること、すなわち、名前欄にハンドル名とトリップとを表示させることができるという一方の利用者の権利が、スレにおける円滑なコミュニケーションを享受したいという他方の利用者の願望と衝突し、最終的に、スレ立て時の機能としてのコテ禁止の是認に結実したことは、メイドインヘブンたる「コテ権」が場合において束縛されることを示す好例であろう。

 

ここで俺が「かかる権利の制限は、おんj民のコテに対する視野の偏狭さから成立した、極めて差別的かつ不当なものであって云々」と言うのは簡単である。

事実、おんj民のコテ嫌いが、各自の経験に基づかないものであること、いわば住民間でおのずと形成されたコテのステレオタイプ、想像上の産物に対する嫌悪である、といった感じは否めないでもない。

それはあたかも見えない異性を相手取って舌鋒鋭く攻撃するどこぞの掲示板の住民のようなものであるから、まあ確かに、先の主張までは俺が成しうるものであるとしてみて、しかしここから先が問題である。俺は続いて「……木を見て森を見ず、すなわち一部のコテの行いを見て、その先入観のもとにコテ全体の性質を断じることはあってはならない、一部が悪行を犯したからといって、それが属するカテゴリーにある大多数もまた悪を成すとは限らない云々」と言うことになるだろう。けれども俺は、口が裂けても「まとも」なコテがコテの多数を占めているなどとは言えないのである。

おんj民を納得さすにはまず客観的なデータが必要だろうし、そのデータを収集するにあたって必要となる熱意は「コテは『まとも』である」という信念に基礎をおくものであろうが、しかしまことに残念なことに、俺はコテが「まとも」であるとは思わないので、その信念も熱意もへったくれもあったものではないのである。
誓って言うが、かかる俺の認識は、先述した白眼視は当然である旨の主張のみに基づくものではなくて、もっと別の、コテの本質に関わる個人的な意見に立脚した見方によるものなのである。そしてその見方とは、誤解を恐れず簡潔に言えば、コテが「まとも」ではないことを称揚するもの、である。

つまりコテが「まとも」ではないことを追求する過程において、おんj民をしてコテ嫌いに至らしめる何かがあるようであれば、もはやそこに和解や交渉の余地はない。俺は決して荒らし行為を是認しているわけではない。むしろ、何の理知的な目的意識もなく、ただ自己承認の欲求というものに負けて行われるそのような行為に対しては、これを俗悪かつコテとしてもっとも程度の低い行為であると断言することに俺は何の躊躇もない。
だが、コテが或る一つの明確な目的意識をもって、しかもそれを表には示さず、悟らせないままに、「まとも」でない行為をきっちりやり遂げるようであれば、俺はかかるコテに対してこれでもかと言うほどの拍手を送るであろう。
ではこの目的意識とは何か。俺をしてこれほど両手を疲弊させるものとは何なのか――それはずばり、「キャラクター性の希求、ならびにその保持増進への意識」である。

閑話

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。」
兼好法師は、賢人となることを目指す者をあれこれと貶す人間に対して、
真似事であっても学を志す者こそが賢人である、僻んでばかりのお前は一生愚物のままである云々と言ったのだが、彼はこの結論を引き出すための喩えとして先の文句を用いた。大路を走ったら即狂人認定とはなかなか手厳しいが、しかしこれはその対象が貴族であると考えれば納得がいく。
衣冠束帯に身を包んで厳かな身振りを示す必要のあった当時の貴族が、それらをすべてかなぐり捨てて京都の大通りを全力で駆けたなら、そりゃもちろん狂人であろう。たとえその行為の前に、今から狂人の物真似しますだの何だの宣言していたとしても、これはすなわち社会的身分を一挙に失いかねない、いや確実にすべて失うに違いない、貴族生命を賭した悪ふざけなのである。

おそらく道端には往時の葵祭に勝るとも劣らぬ数の見物人が集まってくるであろうし、何の騒ぎかと驚いた検非違使庁の役人も大勢押し寄せてくるであろうし、ああ、平民ならぬ貴人が大路を走るとはそれほどの行為なのである。彼は一昼夜の内に奇人となるわけである。親は怒り、妻は泣き、子は惑う。もうすべて取り返しがつかない。いや、あれはキチゲ発散のためでして……とか何とか言っても後の祭りなわけである。全力疾走とはそれほどの行為なのである。

したがって、兼好法師の「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なる名文句を、そのまま掲示板上のコテのキャラクターに対して適用するのは間違っている。
コテがどれほど狂人を真似してみたところで、その行為それ自体に社会的身分や地位を失う可能性が潜んでいない以上、これは兼好法師の喩えにはそぐわない行為なのである。

これはわざわざ言うまでもないことには違いないが、しかし時としてかかる文言に代表されるような名フレーズに付随する権威ばかり振りかざして無謀な論破を試みる輩も出没するようなので、念のためひとつ長々と付言しておいた。
……まあしかし、考えてみれば、兼好法師の権威の人を魅了するところは、後世の誰それがやらかしたとされる家系図偽造の件からして十分理解できるものではないか?
なるほど、それもそうである。では今ここに、人の子よ――すべてを赦そう。*1

……こういう狂言回しもコテハンのキャラクター性の保持のための一つの手段となりうる。
端から見れば単に大仰な言葉遣いをするアホ、あまり強い言葉を使うなよ弱く見えるぞ定期であろうが、コテ当人はこれでいわば生計を立てているのであるから至って必死である。
あるいはむしろそう思われることを意図して演っているのであるから、かかる蔑視も当人にとっちゃ本望であると言えようか。

 

(引用)

 

以上を一言で言うならば、『書き手』は読み手に信頼されなければならないということである。
そして俺はこの両者の関係性をそのまま『コテ』と当該コテ以外のコテ・名無しさんサイドのそれに早速当てはめようとしているわけだが、しかしなにぶん唐突なものだから諸賢が困惑しているであろうことは容易に察しがつく。


そこで誤解のないよう付言しておくと、二重カギ括弧で括られた『コテ』とは、掲示板上ではなく実世界上に存在する一個人を意味している。
すなわちこいつは、掲示板においてコテという一つの人格を創作しかつ操作する、リアルワールド上の何者か、なのである。

先ほど俺はこいつを小説の『書き手』に擬えたが、もうお分かりのように、それは実世界上の『コテ』が掲示板の「コテ」に対して持つ責任と、同じく実世界上の『書き手』が「小説の内容」に対して持つそれとが一致していることからくる比定だった。
つまり『コテ』と『書き手』にとっては、他者からの信頼こそが自身の生命線であって、彼らはかかる信頼をそれぞれ「コテ」と「小説の内容」を通して得ることになるわけだが、それらはあくまで信頼を媒介するモノにすぎない。

したがって、たとえば「コテ」がとんでもないキチガイであったとしても、他者がその「コテ」の先に『コテ』の力量を垣間見るように、『コテ』当人が仕向けることができれば、それで何の問題もないわけである。
具体的に言えば、流浪騒動時の拓也による法律持ち出しの類やらが挙げられるだろうか? あれは間違いなくもっとも印象深い事例のうちの一つである。
なにせ普段はダンゴムシ清水宗治にしてキャッキャしていたような彼が、仲間の特定危機に際しては即座に火消しと弁護に走ったのだから、驚天動地もむべなるかな、その後俺は彼がどれだけキチガイ行為をやらかしていても、しかしこの「コテ」の裏には信頼に値する『コテ』があるのだから、と、安心やら諦めやらが奇妙に入り混じった感情のもとに彼の行動を認識するようになった。

補足すれば、この感情はすなわち、ある程度静かな店内で、モグモグ食事を取ってる自分の席の背後に明らかに独りでぶつぶつ言ってる奴がいて、うわこいつはやべーやつか…?という戦々恐々とした疑いのもと意を決してちらっと後ろを振り返ったら、じつはハンズフリーの通話やってました、みたいな時に感じるやつである。
なんだゲエジじゃなかったのか、やれやれ、という安心感、じゃあいきなり襲ってくるようなこともないわけだ、という信頼感、しかしこの静かな店内で臆面もなくハンズフリるってなかなかだろ、というほんのわずかな消化不良感、……でもまあ人それぞれだしな、俺が過敏なだけだろ、という自分を納得させようとする意識、大体これら四つからなる感情を、当時俺は拓也に対して抱いていた、というわけである。

 

*1:さらに付け加えれば、「では例のコテハンはどうなるのだ、彼は特定されたぞ」という意見もあるかもしれないけれども、それは彼が先述したような理知的な目的意識を欠いた行為を繰り返したがために起こったのである。少なくとも俺は、彼が自身のキャラクターを自覚し、それを保持しようとしていた形跡を、彼の書き込みの中に見出すことができなかった。したがって彼は、俺の認識としては、単なる総領の甚六であった。

自スレで見るコテ史―俺の独り言スレを中心に―

前置き

御堂関白記小右記玉葉、明月記*1、はたまたベルツのそれに至るまで、執筆者たちの思惑は置いておくとして、けだし実際にその時代を生きた人々の熱い息遣いを伝えてやまないのが日記というものである。

その一方で、日本には日記文学という文学ジャンルも存在する。すなわち蜻蛉日記紫式部日記*2更級日記などに代表される、記述に内面的な深みをもち、あるていど回顧録的な性格を備えた文学である。これらからは熱を帯びた息遣いというより、どこか寂寂とした省察のため息を感じるところだが、ともかくも、さきほどの明月記などの日記の類は文字どおり日々の正確な記録を旨としていたので、ひとまずこの点において、一般的な日記と、日記文学とは異なるものであるといえよう。


ここで私から一つの疑問を提示したい。
というのは日記と日記文学との折衷*3は、今現在にいたるまで試みられてこなかったのか、という問いである。
そして私はみなさまがたに代わってこの問いに答えたい。
すなわちコテの自スレこそ日記と日記文学とが折衷されたカタチなのである。

なんでか。よく思い返していただきたいのだが、言ってみればコテの自スレとは日記帳である。身の上*4に起こったとりとめのない出来事を気ままに書きつけるデジタルなダイアリーである。
しかしその一方でコテの自スレとは交流の場である。他人の存在というものはみずからを客観視するのにうってつけの触媒でありきっかけである。
すなわち、コテの自スレとは記録的な日記と省察的な日記文学、これらふたつの特徴をあわせ持ちうる場所なのである!

 

>え、ちょっと待って。それってコテに限ったことでもないし自スレに限ったことでもなくない?

>名無しでもそうだしTwitterでもそうじゃん笑 現場からは以上です笑

 

は?*5
あくまで私の考えだが、どうも自スレとTwitterとは毛色が違うようである。自スレにはどこか閉鎖的な感じがあり、Twitterにはより開かれているという感がある。
この感覚は匿名掲示板とSNSとの本質的な違いに起因しているはずだが、ひとまずそういう立ち入ったことは置いておくとして、私はここで、匿名掲示板のスレッドという形式にはどこか伝統的な日記らしさがある、というひとつの印象論を提示するにとどめる。
すなわち、上から下へと一方通行であり、書き込み数の上限が決まっていること、これらのことと日記とに私は尋常ならざるアナロジーを感じるのである。

それでもってもうひとつ、「コテに限ったことでもない」ということについてだが、言ってしまえば自スレを持っているような名無しはもはやコテと同義である。名誉コテである。
そこには自己を他人と差別化しようという意志が明確だったかそうでなかったかの違いがあるだけで、結果として継続的に自分が自分であると他者から認知されているようであれば、その名無しはすでに本質的にはコテなのだ。これがいわゆる半コテというやつである。

したがって繰り返しになるが私は、コテの自スレこそ日記と日記文学とが折衷されたカタチであると思うし、当然、これこそが、日記の特徴である正確な記録性と、日記文学の特徴である内面の描写の生生しさとを兼ね備えうる、ほとんど唯一といっていい場所であると信ずる*6
ということは、である。おーぷん2ちゃんねる各地に散らばるコテの自スレを相互に関連づけてひとつにまとめあげようものなら、さぞかし正確で彩り豊かなコテの歴史というものが紡ぎ出されるにちがいない。

言ってしまえば、これまでのコテの歴史のまとめは叙事的すぎ、あるいは叙情的すぎるきらいがあった。というのは編纂者が、騒動が起こったスレやその動向ばかりを注視するように努めていたから、はたまた自らの個人的な印象に寄りかかりすぎていたからであろう。しかしこれには、とくに後者には仕方のない面もある。
なぜならコテ界隈という狭い世界の性質上、歴史の編纂者はそっくりそのまま騒動の体感者であったから*7である。これでは印象に真実が歪められるのもやむをえまい。
そこで今回、私はひとつの自スレを中心として各自スレを紐づけつつ、これをもってコテの歴史を見ていくことにした。
そのスレッドとは、一時期ROMコテ*8なるコテたちの一大根拠地であった「俺の独り言スレ」である。また他にもゴッドブレス、オロナミン、ピメント、フメノール、いわしぼ、オナライチ芹沢、バラモス、サボテン、らんらん、瞬発力、天才イケメン、冒頓単于、殺戮に至るにゃんこ、トイレの中にはわいがいる、反発力、安富パーキングなど*9、数多くのコテの自スレを参考にしてコテ界隈を見ていこうと思う*10

それはさておき

以上が前説で、ここからがようやく本題である。このように長ったらしく気分に任せて述べられたような口上はひとまず忘れておくに越したことはない。
げんに私も、あの熱意のこもったスレイマンの長文なんぞはほとんど記憶にないのだから悲しいかな、人とはそういうものなのである。

さて*11、俺の独り言スレを通してコテの歴史を見ていくにあたり、ひとつ言っておくべきことがある。
というのは当該スレが独り言という形式を取っているために、何かと曖昧な書き込みが多く*12、さらには自スレをまたいで会話するなどという荒業までたびたびなされているため、一つ一つの書き込みをきちんと読み取っていくのにとんでもない手間がかかるということだ。
たとえば今みなさまがたが「俺の独り言スレ」を読み返してみたとして、なんのこっちゃという部分が必ず出てくる。独り言スレ研究の第一人者を自負する私でさえしばしば訳わからなくなる始末なのだから絶対にひとつやふたつ出てくるはずである。そういう箇所を、なんとか私が独り言スレに関わる記憶を留めているうちに正しておきたいというのが、私が今回かかる仕事をおこなおうと思った主たる理由である*13

俺の独り言スレ3

それではまず俺の独り言スレ3を見ていくことにする*14。期間は2015/06/14(日)~2015/07/06(月)。

 

 

*1:儀式典礼故実を継承する第一義があった一方で

*2:彰子の出産記録の性格が強い一方で

*3:日記文学それ自体がノンフィクション(日記)とフィクション(小説)がないまぜになったものだろというもっともな指摘はNG

*4:コテとしての

*5:これ立派なロジハラだろ

*6:話半分定期

*7:前者はすなわち客観的であろうとしすぎたがゆえの味気なさ

*8:ROMコテに関しては別記事参照

*9:たぶんまだ大勢いる

*10:以上の文章ではたしていくつの「すなわち」が酷使されたでしょうか、回答を述べよ

*11:四十分ぐらい話そうかな

*12:戦犯は云々の多用

*13:ネンドールネンドールによるネンドールのためのコテ史でもある

*14:ちょっとここ消えてますね

ROM鏡

花の都、おーぷん2ch

条坊制型のこの都では各区画ごとに数多の住民らが日々の生活を営んでいる。

西に諍いが起これば削除人が駆けつけ、東に祭りが催されれば都民はこぞって見物に向かう。北には運営のおはします百敷の大宮があり、南には盛大な門が天に伸びこれを羅城門という。

外交使節たるまとめ民らの送迎に際し頻繁に活用されており、またその装飾の荘厳華麗さたるや、当のまとめ民らの感興をも刺激する所となり、洛中への恒久的な滞在を請う者もしばしば現れる。その都度、我らは我らのスローガンであるあの「まとめ民とおまいらが作る――新しい2ちゃんねるが始まるよ」を声高らかに謳い上げるのである。懇願の緊張は一瞬にして溶け去り、哀訴の場は忽ちにして歓喜の招宴へと変貌する。

永久の友よ、もはや君の過去の一切は我らと無関係のものではない、すべてはこの時この場所で、こうして我らと久遠の友の契りを結ぶためにあったのだから……。

宴も名残、夜も名残。この世にてはついぞ忘れ得ぬ、今宵生まれし思い出の数々。滔々たる慶びの涙が我らの頬を伝いゆくが、しかしそろそろ家路につかねばならない。別れを惜しみながら我々は離れてゆく。友には一つの邸宅があてがわれるそうだ。場所は知らないが、きっと良い場所であろう、なにせ運営のはからいなのだから。

 

いっぽうそのころ、その「友」は案内にしたがって歩を進めていた。

大路から小路にそれからまた小路に入り、いったいどのぐらい歩いただろうか、頼りになるのは案内人の松明だけ、寂寂と照らし出される辺りの光景は自分が知る花の都のそれではない。見窄らしい茅葺きの家屋が軒を並べ、そこからは人の話し声が常に漏れ聞こえてきていて、そして最も異質なのは大人の身長ほどの高さの立て札が道の両側に点在していることだ。それらは闇に紛れてしまっていて内容がわからない。案内人は足早に進み続けており、なにやら立ち止まることを良しとしないふうだ。いったいどういうことなのか……。

彼の首元が時々きらめくのは彼が汗を滲ませているからなのだと私が気づいたとき、それは同時に彼の歩みがぴたりと止まったことを意味した。

どうか、しましたか。私は訊く。はい……と彼は言葉を詰まらせる。無言のまま彼は自身の持つ松明のほうに視線を向けた、そこには立て札があった。どうやら私にこれを見ろと言っているようだ。どれどれ、と私は内容を伺う。何が書いてあるのやら……。

馴れ合うな殺伐としろ

 ……?どういうことだろう。花の都の人々はみな優しく陽気なのだと、私はさきほどの宴に咲き満ちていた笑顔によって知った。これとそれとはあまりに乖離してはいないか。私が少し困惑しているなか、彼は震えた声で何かを言った、私は立て札の文言に気を取られていて、その何かをはっきりと認識するのには多少の時間が掛かった、そしてそれはどういうことなのですかと彼の方を伺ったとき、すでに彼の姿はなかった。足音もなく、忽然と消えてしまっていた。あたりから温かい光が失われ、か細い月光だけが残される。

――ここがあなたの御宅です、今後はここでお過ごしください。

彼の言葉は浮遊しつづけている。これにもやはり現実味がない。私は青白い光で何度も立て札の文言をたしかめてみた。藁にもすがるような思いだった。

馴れ合うな殺伐としろ

馴れ合うな殺伐としろ

馴れ合うな殺伐としろ

 馴れ合うな殺伐としろ

しかし何度たしかめてみても、文言はそのままだ。
もしかするとこの家特有の屋号かもしれない。そんな想像で逡巡を打ち消しながら、私は家の門をくぐった。明日の朝になったら事情を役人に問おう、今日はここで夜を明かすしかない、と思いながら、一足ずつ丁寧に歩く。

どこからともなく話し声がする。この家にはすでに誰かが住んでいるらしい、それも声の数からして一人二人ではない、七八人は居るだろう。私は間借りすることになるのだろうか。この都の人はみな優しいから、窮屈さこそあれ、不快感を覚えたりするなんてことはないだろうが、しかし、あの立て札の文言――「馴れ合うな、殺伐としろ」――は、私を十分に怖気づかせた。思えばこれはこの都のスローガンという「まとめ民とおまいらが作る――新しい2ちゃんねるが始まるよ」とはまったくもって真逆だ。「おまいら」などという言葉をこの家で使ってしまえば最後、生きて帰れないのではないか。

そんな不安を抱きながら私は進んだ。砂利を踏み分け踏み分け、話し声のするほうに寄っていく。

角を曲がると開けた場所に出た。どうやらここが庭のようだ。簾から明かりが漏れ出ている。人影もいくつか揺らめいていて、もうその話し声もはっきりと聞こえてくる。ずいぶん賑やかだ。私はそこへ向かって、戦々恐々としながらも問いかけてみた。

すみません、すこしよろしいでしょうか。

瞬間、簾越しの声が止まる。

すみません、ここに越してきたものなのですが。

私は沈黙を嫌って言葉を続けた。うってかわって密やかな話し声が一言二言聞こえ、少しして、何やらもぞもぞと一つの人影が揺らぎ始めた。がばりと簾が上がる。

やあ、とその男は言った。表情は逆光のため分からない。私はそれに会釈で応える。

ちょうど良かった、今話し始めたところなんです。どうぞこちらへ、さあ、どうぞ。

何のことやら私にはわからなかったが、少なくとも歓迎はしてくれているようだ。私は胸を撫で下ろしながら、彼が示すままに簾をくぐる。

中では八人の男たちが円居していた。その視線がすべて私に注がれる。またも私は笑みをうかべて頭を下げ、そして言う。

ここにご厄介になるはずの者です、どうぞこれからよろしくおねがいします。

すると男たちは互いに顔を見合わせ、堰を切ったように笑い始めた。あははは、はははは。私は呆気にとられてしまってものも言えない。涙を浮かべて笑っている者も居るようだ。うち二人に至っては何か異様な言葉を発しながら表情を喜悦に歪めている――あふりか、あふりか、と彼らは言っているのだろうか。よく分からない。長い長い十数秒が過ぎて、彼らはようやく笑い止んだ。なおも顔は緩んでいるが、しかし唯一の救いは彼らのそれに私を嘲笑している雰囲気が感じられなかったことだ。

目元を拭いながら、ひとりの男が言う。

もうコテになりたいとは、あなたも尋常でない性分をしていらっしゃる。

その声色がどこか憂いを帯びているように思えたのは私の気のせいだろうか。

また同じ男が続ける。

それならなおさら我らの話を聞かねばならないでしょうね。今夜は長くなるでしょうなあ――。

すると彼らはさっと体を外側に開き、私を円の中に迎え入れた。中心には灯火が揺らめいている。その揺らめきが私には非常に頼もしく思えてしかたがなかった。

日刊独り言 12月1日 (途中)

レイマンの「昔良定期」を追う

そもそも誰?

(´ω`スレイマン)◆SUREIMANMTBS は、元流浪のインキュベーター、元夜は短し歩けよオタク、元アッカリーン、元マギー、元八百屋*1。ある騒動により引退した(2015年3月15日)彼はその後アッカリーンとして活動を開始(2015年6月)。そして時は彼の「昔良定期」の主な対象になっている「連邦議会」に至る(2015年6~7月)

彼のコテ名の変遷が激しすぎることの原因は前述した騒動にある。詳説は避けるが、それ相応の問題が彼を終始取り巻いているので、彼がコテを付け続ける限り、彼に安息の訪れる時はないだろう。

連邦議会って?

2015年6月12日、「連邦議会」初出*2アッカリーン◆6jfNhtac0s(スレイマンの発言がきっかけとなり「連邦議会」に関する構想が膨らむが、その理想のみが先行して実際の中身について深く掘り下げるような書き込みは成されていなかった。

14日午後、アッカリーンが連邦議会の中身に関する構想を述べる*3。同時にネンドール連邦議会の憲章草案(5章30条からなる)を書き込む*4

21日、アッカリーンの助言を受けつつ、ネンドールが憲章(15章76条)を完成させる。しかし、この憲章は膨大なものであったがために把握している者が作成者本人であるネンドールしか居らず*5、この散々な事態がのちの連邦議会瓦解の引き金となった。他人の精読なしに憲章の内容が通されることをもはや日常茶飯事として受け入れていたネンドールは拓也が就くと見られていた連邦議会議長の権限を極力抑えたりしたが結局は、云々。

25日、アッカリーンが活動休止を宣言。ネンドールに「復帰までの指揮を託す」としたが、連邦議会構想中途でのそれはネンドール含め協力者達を混乱させた。

以後連邦議会構想は停滞し、再び活発化するまでに約一ヶ月を要することになるのだが、……。

週刊コテ界隈 11月30日号 (途中)

死に体のコテ界隈に未来はあるか?  

 死に体(しにたい)は、相撲用語で自力で回復不可能なほど姿勢のバランスが崩れた状態を指す。「体(たい)がない」「体(たい)が死んでいる」ともいう。

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最近ますます寒さが増している。世間はこの時節を初冬と呼ぶ。冬の初め、これからさらに冴えていくことだろう。しかし、世間は初冬だというのに、もうすでに猛烈な吹雪に見舞われている人々が居る。皆さんおなじみコテである。

すさまじい強風に吹っ飛ばされたコテは数知れず、足元がぐらつき宙に舞い上がりそうで気が気でないコテも居れば、冷たい地面に座り込んで談笑するコテも居る。後者はたぶんいくらか感覚が麻痺しているのだろう。顔色の悪さと会話の内容がそれを物語っている。バラックにしか見えない粗末な家屋の中では多くのコテがこれまた談笑している。会話が白熱していくにつれて、彼らは部屋で煌々と燃える石油ストーブの存在を忘れてしまった。中毒の危険に瀕しているが、どのみち換気できるような天候ではない。

大雪のち大雪

西高東低といえば冬型の気圧配置だが、現在のコテ界隈はもっぱらそれの日本海側にあたる。とんでもない寒気がとんでもない季節風に乗ってコテ界隈に続々と降り立っている、まさに目も当てられない現状。世間の名無しから同情を買える域には軽く達しているのではないだろうか。

確かに常日頃からコテ界隈の天候は悪い。むしろ晴れるほうが珍しいぐらいだ。しかしこの雪は尋常ではない。強風を伴うこの雪は、冒頭でも述べたが、コテを次々と吹き飛ばしている。そして「コテが吹っ飛ばされた」という事実に作用を受けた天候は、さらに悪化していく。なんでか。

「コテが吹っ飛ばされた」という事象、もとい界隈からコテが離れることはコテ界隈の減退に直結するし、コテ界隈に暗雲が立ち込めることと同義である。この暗雲は活動気力の低下、いわば気象病を引き起こすので、個人の書き込みの頻度は低下する。そして、しだいに縮小していくコテ界隈の規模に嫌気が差し、ついには界隈から離れていく。つまり、「コテが吹っ飛ばされ」ることの要因は「コテが吹っ飛ばされた」ことにあるのだ。

元凶は何だ

もちろん、一般的なコテ界隈においては、界隈から離れるコテも居れば入ってくるコテも居る。吹っ飛ぶコテより突っ込んで来るコテの方が多ければ、界隈が衰退することは無いだろうし*1、多くの場合より活性化するだろう。しかしこちらのコテ界隈の場合は突っ込んで来るコテが少ないので、当然著しく活性化することはない。そして前述した通りのいわゆる負のスパイラルに陥ったまま、界隈というものが無に帰すまで、延々それが繰り返されるだけ、ということになる。

では、その「負のスパイラル」が生じた元凶は何なのだろうか。

詳細は書け次第順次。

 

*1:コテの質の問題も取り沙汰されているが、そもそも質の高いコテが離れていく要因は(一身上の都合とかいうのを除けば)コテ界隈の衰退にあるだろう。コテにおける質と量の問題についてはまた別に。